長らく。
なにも手をつけることが出来なかった。
理由もなく、それもまたただの言い訳になるから。
決められた道なんてどこにもなく。
だからこそ自由で在るということ。
紛れもなく。
容赦もない。
遠くから聴こえる虫の声に耳を傾けるように、波の音に引き寄せられるようにただただ自由に歩きたい。
満月の夜空の下で開けた缶ビール。
飲み干した缶を海へと投げつける。
誰も居ない海。
なにも帰ってこない明日。
ゲルニカという旅。
この旅の終わりまで。
thee old circus "product story" and "blog" page
長らく。
なにも手をつけることが出来なかった。
理由もなく、それもまたただの言い訳になるから。
決められた道なんてどこにもなく。
だからこそ自由で在るということ。
紛れもなく。
容赦もない。
遠くから聴こえる虫の声に耳を傾けるように、波の音に引き寄せられるようにただただ自由に歩きたい。
満月の夜空の下で開けた缶ビール。
飲み干した缶を海へと投げつける。
誰も居ない海。
なにも帰ってこない明日。
ゲルニカという旅。
この旅の終わりまで。
Awaken and dream.
「目を覚ましたままに夢を見る」
“ GUERNICA ”
ライダースだとかなんだかとか。
革ってもんが好きなことに理由などどこにもないし、その想いがどこへも行かないというだけのこと。
墓場までも。
そんな想いを文字通りに「描いて」作り出した。
大ごとに考えすぎるのは自分の性格であり、信念でもある。
特段それがどうこうってことはない。
時々どうしようもなく、なにもかも手につかないほど俺は本の世界へと逃げ込む。その時、他のことはどうでも良くなってしまうほどに。そこには俺にとってのささやかでやさぐれた洞穴のような聖域があり、いつどんな時でもそこには俺を迎え入れてくれるのだ。
なにか気に入ったモノを着込んでいくのは、そしてその姿が自分と共に朽ちていくのは自分自身という物語を紡いでいるような気持ちになる。
つまりはそれはまるで本のような世界だということ。
違いがあるとすればそれが文字に起された世界なのか紙の隙間に閉じ込められた世界かの違いだけだ。
夢を見よう。
起きたままに。
目を覚ましたままに。
Abakareta Sekai.
「暴かれた世界」
“ GUERNICA ”
9月に吹く風があり、10月に吹く風がある。
どちらもそれはただの風だ。
でも、その風の中に含まれる匂いや空気は少しづつ違う。
バームクーヘンの層のようにそのひとつひとつは絶妙に入り組んでいてその歪みのない風は僕の心を少しづつ歪ませていく。
テーマとしての主張と意味が強い今回のコレクションでは、その物語に紐付いてそれらの世界自体がデザインの枠組みとなり礎になっている。つまりそれらはそれぞれ単一のアイテムで眺めるととても歪みが強くそれぞれが湾曲しているように見えることだろう。
だが、しかしその歪みはそれぞれの歪みとぴったり重ね合わさり符合していくのだ。
誰が?
どこで?
なにを?
世界を作っているのはダレナノカ。
自分自身とそれを取り巻く「在る」と言われている世界は本当にそこに「在る」のであろうか。
もしかすると在ると思っている世界はただの架空のものなのかもしれないし、きっとそれを証明することは出来ないのかもしれない。少なくとも僕にとっては世界とはそういったものだと思っているし、その僕の世界は誰であっても壊すことは出来ないのと同じこと。
色褪せた紙には時代を感じさせる滲んだインクが染み込んでいて、そこには美しく朽ちた言葉が並んでいて僕はその本を開くたび新しい旅の世界へ踏み込んでいくように感じるし、僕が感じることは僕の世界においてはある種の絶対性を保ち歪みのある世界においてはやはり僕自身も歪んでいることを認識する。
つまりは歪みを持った世界こそが僕にとっての水平と垂直であり世界の均衡なのだ。
そう、この世界は僕にとっての「暴かれた世界」
Floating rust.
それはつまり、「浮いた錆」
“ GUERNICA ”
体の中から浮き上がってくる「錆」が在る。
そしてそれは心の中から生み出される。
歩くということは生から死へ止めることの出来ない歩みを進めるという揺るぎなき絶対的事実であるということ。
つまり、人は、命は生まれながらに日々錆を増やしていくのだ。
赤い錆、青い錆、茶の錆。
錆の色も様々だ。
ただし、それは時に美しく無二の錆。
死を迎えた時全ては浄化されるのだろうか?
浮き出た錆は。
The song is over, but the melody is still going on.
唄は終わった、でもメロディはまだ続いてる。
“ GUERNICA ”
「ゲルニカ」というテーマ。
テーマなど必要なのかと考えることもある。
答えなどどこにもなく、在るとするならば在れば良いし無題であればそれも良い。
つまりは常に感性だのセンスだのとくだらない教科書的にモノを語るに当たって、作り手である自身の完全な主観と首謀へ向けた傲慢なテーゼのようなものだと考える。少なくとも僕自身としては。
作るということに当たってのテーマ性などはそういった意味ではある意味ではそこに意味を持たず真ん中に線を引いてこちら側と向こう側と分けうることが出来るのであれば少しは意味だってあるのかもしれない。
ただし、それよりはそこにはもっと意味や意義は存在をしていてどういうことかと言えば「それ」は常に自分自身の中のどこかに在るということである。
「唄は終わり、それでもメロディは続く」
ゲルニカの絵は「そこ」に在るただの絵だ。
ましてや本物など僕は見たこともなく触れたこともない。
ゲルニカは唄だ。
その絵が完成された時、その絵は終わる。
しかし、絵がもたらす意味や意義や願いや想い。
なによりもその絵を見たオーディエンスにとっての心にメロディとして続くのだろう。
・・・
もちろんそれはゲルニカの絵を描き上げたパブロ・ピカソにとっても。
そして僕にとっても。
そういった意味においてはピカソも死に、ゲルニカも死に、僕も死んでいる。
本を読むことは僕にとってはとても日常的なことであり、同時に神聖なことでもある。書物(とは言えそれは主に小説という枠の意味においてだけれど)が僕にもたらす壮大で無限的な世界は僕の心をどこまでも広げ、また同時にどこへも辿り着かない閉ざされた世界へと誘う。
すべての事柄は異なる反面の側面づつを抱えながらコインのように表と裏で貼り合わせのようになっているのだ。
矛盾性という脆弱な危うさに超絶的な魅力があるようにそのコインの時に片側が輝きその裏で陰りは存在する。
ろくでもない人間がろくでもない本を読みろくでもない考えを持ち、最終的にはろくでもない想いを持ったモノが命を与えられる。
卑下することに意味などはない。
ただ、それは恐怖から目を背けるための自己防衛であり同時的な自己療養へ向けた鍛錬でもある。儀式は時に鍛錬的な心を作り出すからだ。
ものさしを誰かが持っているのであれば勝手に測ればいいだけのこと。
唄は誰のものでもなく、メロディを聴くための耳を傾けるのは自由だから。
The beginning and end of all life.
In other words.
The end is the beginning.
全ての命の存在する始まりと終わり。
つまりは。
終わりは始まりであるということ。
“ GUERNICA ”
”革” とはそういったものかもしれないと思うのだ。
命の「あと」で在りながらもそこにはまた「新しい」命として生き続けるのだから。
だからこれは始まりなのだ。
There is a partition.
This side and the other side.
The difference in the world.
Light and shadow.
Clouds and sky.
The back of the well and the sky.
In other words, a gap.
“ GUERNICA ”
The end of the world.
It is surely a story in his heart.
Sometimes people drop it into novels or paintings.
“ GUERNICA ”
「世界の終わり」
そんなものがこの世にあるみたいだ。
終わりがこの世に「在る」などという矛盾。
あちら側でなく、きっとそれはこちら側でさえないことだろう。
唄が響き朽ちたメロディが悲鳴を上げる。
いつからだろう。
電気が生まれた朝。
大衆向けのくだらない話ばかりが飛び交う世界。
それが怖くて僕は井戸へと逃げ込んだ。
耳を塞ぎ、目を閉じて。
誰もいない世界で。
世界の果てで光が生まれる。
こちら側でもなく、あちら側でもない世界で。
深く掘られた井戸の底で。
The depths of both eyes and the heart of Tsugi Hagi.
What did Picasso leave to me without permission?
“ GUERNICA ”
「ツギ」と「ハギ」
つまりただのそれは言葉だ。
端切れの布を継いでいく。
継ぐとは紡ぐとも書くことが出来るかもしれない。
ゲルニカの絵はそのそれぞれはまるでいびつで異国ごとに住む「ひとつづつ」の「物語」のように見えた。
少なくとも僕には。
しかし、その継がれ、紡がれた「ひとつ」の絵はたったひとつの世界を持つ。
どこにも辿り着かない世界。
This is an “introductory”. This is the beginning, which is the first step towards the end.
“ GUERNICA ”
ピカソになどもちろん逢ったこともなければ、その輪郭すらも知らなかった。ただその絵、その背景、両目には力強いものが在ることは知っていたしその裏側にある「なにか」に魅力を感じざるを得なかった。
40年と少し。
偶然に生きてきた、生かされてきた自分自身の時間だ。
一歩という歩幅に一体どれほどの価値があることだろうか。
暗闇の中をものさしを持って歩くようなことをしたいわけではないのだ。
ジミー・ヘンドリクスが27歳で死んだ。
カート・コバーンも同じ27歳でこの世界から居なくなった。
スティービー・レイボーンは35歳だ。
あの小説の中の「僕」の年齢さえも越えた今一体自分のこの生という時間の中にどれほどの意味と価値を見出だせることだろうか。
パブロ・ピカソは生きた。
そして遺した。
最後はすべて焼いてくれ。
俺はそう願う。
けれど、それが叶うことがないことも知っている。
であるのであれば。
そうであるのならば。
一体この僕になにが出来ることだろう。