「暴かれた世界」Abakareta Sekai

Abakareta Sekai.

 

「暴かれた世界」

 

“ GUERNICA ”

 

 

 

9月に吹く風があり、10月に吹く風がある。

どちらもそれはただの風だ。

でも、その風の中に含まれる匂いや空気は少しづつ違う。

バームクーヘンの層のようにそのひとつひとつは絶妙に入り組んでいてその歪みのない風は僕の心を少しづつ歪ませていく。

 

テーマとしての主張と意味が強い今回のコレクションでは、その物語に紐付いてそれらの世界自体がデザインの枠組みとなり礎になっている。つまりそれらはそれぞれ単一のアイテムで眺めるととても歪みが強くそれぞれが湾曲しているように見えることだろう。

だが、しかしその歪みはそれぞれの歪みとぴったり重ね合わさり符合していくのだ。

誰が?

どこで?

なにを?

 

世界を作っているのはダレナノカ。

 

自分自身とそれを取り巻く「在る」と言われている世界は本当にそこに「在る」のであろうか。

もしかすると在ると思っている世界はただの架空のものなのかもしれないし、きっとそれを証明することは出来ないのかもしれない。少なくとも僕にとっては世界とはそういったものだと思っているし、その僕の世界は誰であっても壊すことは出来ないのと同じこと。

 

色褪せた紙には時代を感じさせる滲んだインクが染み込んでいて、そこには美しく朽ちた言葉が並んでいて僕はその本を開くたび新しい旅の世界へ踏み込んでいくように感じるし、僕が感じることは僕の世界においてはある種の絶対性を保ち歪みのある世界においてはやはり僕自身も歪んでいることを認識する。

 

つまりは歪みを持った世界こそが僕にとっての水平と垂直であり世界の均衡なのだ。

 

そう、この世界は僕にとっての「暴かれた世界」

Floating rust / 浮いた錆

Floating rust.

 

それはつまり、「浮いた錆」

 

“ GUERNICA ”

 

 

 

体の中から浮き上がってくる「錆」が在る。

そしてそれは心の中から生み出される。

 

歩くということは生から死へ止めることの出来ない歩みを進めるという揺るぎなき絶対的事実であるということ。

 

つまり、人は、命は生まれながらに日々錆を増やしていくのだ。

 

赤い錆、青い錆、茶の錆。

 

錆の色も様々だ。

 

ただし、それは時に美しく無二の錆。

 

死を迎えた時全ては浄化されるのだろうか?

 

 

浮き出た錆は。

The song is over, but the melody is still going on / 唄は終わった、でもメロディはまだ続いている

The song is over, but the melody is still going on.

 

唄は終わった、でもメロディはまだ続いてる。

 

“ GUERNICA ”

 

 

「ゲルニカ」というテーマ。

 

テーマなど必要なのかと考えることもある。

 

答えなどどこにもなく、在るとするならば在れば良いし無題であればそれも良い。

つまりは常に感性だのセンスだのとくだらない教科書的にモノを語るに当たって、作り手である自身の完全な主観と首謀へ向けた傲慢なテーゼのようなものだと考える。少なくとも僕自身としては。

作るということに当たってのテーマ性などはそういった意味ではある意味ではそこに意味を持たず真ん中に線を引いてこちら側と向こう側と分けうることが出来るのであれば少しは意味だってあるのかもしれない。

ただし、それよりはそこにはもっと意味や意義は存在をしていてどういうことかと言えば「それ」は常に自分自身の中のどこかに在るということである。

 

 

「唄は終わり、それでもメロディは続く」

 

ゲルニカの絵は「そこ」に在るただの絵だ。

ましてや本物など僕は見たこともなく触れたこともない。

 

ゲルニカは唄だ。

その絵が完成された時、その絵は終わる。

しかし、絵がもたらす意味や意義や願いや想い。

なによりもその絵を見たオーディエンスにとっての心にメロディとして続くのだろう。

 

・・・

 

もちろんそれはゲルニカの絵を描き上げたパブロ・ピカソにとっても。

 

そして僕にとっても。

 

そういった意味においてはピカソも死に、ゲルニカも死に、僕も死んでいる。

 

本を読むことは僕にとってはとても日常的なことであり、同時に神聖なことでもある。書物(とは言えそれは主に小説という枠の意味においてだけれど)が僕にもたらす壮大で無限的な世界は僕の心をどこまでも広げ、また同時にどこへも辿り着かない閉ざされた世界へと誘う。

すべての事柄は異なる反面の側面づつを抱えながらコインのように表と裏で貼り合わせのようになっているのだ。

矛盾性という脆弱な危うさに超絶的な魅力があるようにそのコインの時に片側が輝きその裏で陰りは存在する。

 

 

ろくでもない人間がろくでもない本を読みろくでもない考えを持ち、最終的にはろくでもない想いを持ったモノが命を与えられる。

卑下することに意味などはない。

ただ、それは恐怖から目を背けるための自己防衛であり同時的な自己療養へ向けた鍛錬でもある。儀式は時に鍛錬的な心を作り出すからだ。

ものさしを誰かが持っているのであれば勝手に測ればいいだけのこと。

 

唄は誰のものでもなく、メロディを聴くための耳を傾けるのは自由だから。

The end is the beginning / 終わりは始まりであるということ

 

The beginning and end of all life.

In other words.

The end is the beginning.

 

全ての命の存在する始まりと終わり。

つまりは。

終わりは始まりであるということ。

 

“ GUERNICA ”

 

 

 

 

 

”革” とはそういったものかもしれないと思うのだ。

 

命の「あと」で在りながらもそこにはまた「新しい」命として生き続けるのだから。

 

だからこれは始まりなのだ。