Floating rust / 浮いた錆

Floating rust.

 

それはつまり、「浮いた錆」

 

“ GUERNICA ”

 

 

 

体の中から浮き上がってくる「錆」が在る。

そしてそれは心の中から生み出される。

 

歩くということは生から死へ止めることの出来ない歩みを進めるという揺るぎなき絶対的事実であるということ。

 

つまり、人は、命は生まれながらに日々錆を増やしていくのだ。

 

赤い錆、青い錆、茶の錆。

 

錆の色も様々だ。

 

ただし、それは時に美しく無二の錆。

 

死を迎えた時全ては浄化されるのだろうか?

 

 

浮き出た錆は。

The song is over, but the melody is still going on / 唄は終わった、でもメロディはまだ続いている

The song is over, but the melody is still going on.

 

唄は終わった、でもメロディはまだ続いてる。

 

“ GUERNICA ”

 

 

「ゲルニカ」というテーマ。

 

テーマなど必要なのかと考えることもある。

 

答えなどどこにもなく、在るとするならば在れば良いし無題であればそれも良い。

つまりは常に感性だのセンスだのとくだらない教科書的にモノを語るに当たって、作り手である自身の完全な主観と首謀へ向けた傲慢なテーゼのようなものだと考える。少なくとも僕自身としては。

作るということに当たってのテーマ性などはそういった意味ではある意味ではそこに意味を持たず真ん中に線を引いてこちら側と向こう側と分けうることが出来るのであれば少しは意味だってあるのかもしれない。

ただし、それよりはそこにはもっと意味や意義は存在をしていてどういうことかと言えば「それ」は常に自分自身の中のどこかに在るということである。

 

 

「唄は終わり、それでもメロディは続く」

 

ゲルニカの絵は「そこ」に在るただの絵だ。

ましてや本物など僕は見たこともなく触れたこともない。

 

ゲルニカは唄だ。

その絵が完成された時、その絵は終わる。

しかし、絵がもたらす意味や意義や願いや想い。

なによりもその絵を見たオーディエンスにとっての心にメロディとして続くのだろう。

 

・・・

 

もちろんそれはゲルニカの絵を描き上げたパブロ・ピカソにとっても。

 

そして僕にとっても。

 

そういった意味においてはピカソも死に、ゲルニカも死に、僕も死んでいる。

 

本を読むことは僕にとってはとても日常的なことであり、同時に神聖なことでもある。書物(とは言えそれは主に小説という枠の意味においてだけれど)が僕にもたらす壮大で無限的な世界は僕の心をどこまでも広げ、また同時にどこへも辿り着かない閉ざされた世界へと誘う。

すべての事柄は異なる反面の側面づつを抱えながらコインのように表と裏で貼り合わせのようになっているのだ。

矛盾性という脆弱な危うさに超絶的な魅力があるようにそのコインの時に片側が輝きその裏で陰りは存在する。

 

 

ろくでもない人間がろくでもない本を読みろくでもない考えを持ち、最終的にはろくでもない想いを持ったモノが命を与えられる。

卑下することに意味などはない。

ただ、それは恐怖から目を背けるための自己防衛であり同時的な自己療養へ向けた鍛錬でもある。儀式は時に鍛錬的な心を作り出すからだ。

ものさしを誰かが持っているのであれば勝手に測ればいいだけのこと。

 

唄は誰のものでもなく、メロディを聴くための耳を傾けるのは自由だから。