The song is over, but the melody is still going on / 唄は終わった、でもメロディはまだ続いている

The song is over, but the melody is still going on.

 

唄は終わった、でもメロディはまだ続いてる。

 

“ GUERNICA ”

 

 

「ゲルニカ」というテーマ。

 

テーマなど必要なのかと考えることもある。

 

答えなどどこにもなく、在るとするならば在れば良いし無題であればそれも良い。

つまりは常に感性だのセンスだのとくだらない教科書的にモノを語るに当たって、作り手である自身の完全な主観と首謀へ向けた傲慢なテーゼのようなものだと考える。少なくとも僕自身としては。

作るということに当たってのテーマ性などはそういった意味ではある意味ではそこに意味を持たず真ん中に線を引いてこちら側と向こう側と分けうることが出来るのであれば少しは意味だってあるのかもしれない。

ただし、それよりはそこにはもっと意味や意義は存在をしていてどういうことかと言えば「それ」は常に自分自身の中のどこかに在るということである。

 

 

「唄は終わり、それでもメロディは続く」

 

ゲルニカの絵は「そこ」に在るただの絵だ。

ましてや本物など僕は見たこともなく触れたこともない。

 

ゲルニカは唄だ。

その絵が完成された時、その絵は終わる。

しかし、絵がもたらす意味や意義や願いや想い。

なによりもその絵を見たオーディエンスにとっての心にメロディとして続くのだろう。

 

・・・

 

もちろんそれはゲルニカの絵を描き上げたパブロ・ピカソにとっても。

 

そして僕にとっても。

 

そういった意味においてはピカソも死に、ゲルニカも死に、僕も死んでいる。

 

本を読むことは僕にとってはとても日常的なことであり、同時に神聖なことでもある。書物(とは言えそれは主に小説という枠の意味においてだけれど)が僕にもたらす壮大で無限的な世界は僕の心をどこまでも広げ、また同時にどこへも辿り着かない閉ざされた世界へと誘う。

すべての事柄は異なる反面の側面づつを抱えながらコインのように表と裏で貼り合わせのようになっているのだ。

矛盾性という脆弱な危うさに超絶的な魅力があるようにそのコインの時に片側が輝きその裏で陰りは存在する。

 

 

ろくでもない人間がろくでもない本を読みろくでもない考えを持ち、最終的にはろくでもない想いを持ったモノが命を与えられる。

卑下することに意味などはない。

ただ、それは恐怖から目を背けるための自己防衛であり同時的な自己療養へ向けた鍛錬でもある。儀式は時に鍛錬的な心を作り出すからだ。

ものさしを誰かが持っているのであれば勝手に測ればいいだけのこと。

 

唄は誰のものでもなく、メロディを聴くための耳を傾けるのは自由だから。

ひとつ、ひとつの足跡が向かう先は決まっている

雨が続く。

東京も。

例年にはないほどの梅雨寒が続いていて、個人的な心持ちで言えば悪くはないと思うし、ある意味では体の弱い自分にはありがたいことでもある。

ここしばらくは空想の中ばかりに居ることが多い。

雑多な世界に身を置きながらもそれをとても嫌っている自分は、自宅のベランダ以外の外へもほとんど出ることがなくなった。

気がつけば週のうちで1日だけ100歩ほど先のコンビニエンスストアへ切れた煙草を買いに出ただけということもある。

つまりはきっとこの世界が苦手であり、反面的にこの世界を愛しているということだと思うのだ。

矛盾と逆説ばかりの中に自分の心と身が在ることを知る。

どういうことかと言えば単純だ。だって、私は外へ出ないのに皆が外へ出るための洋服を作り続けている。とすれば、やはり私が作る意味は自己顕示への欲望ではなく自己世界での認識の為の作業だと考える。

 

「唯ひとり」

 

そう言ってしまえるのであれば、私にとって必要なモノはとても少ない。

数冊の本(それはもちろん小説となる)と珈琲と煙草。

数足のブーツ。

 

一歩づつ歩くことは一歩づつ死へ近づくこと。

 

それはとても確かなことだから。

 

いつか来るその日の為に僕は歩き続ける

 

 

つまり自分自身は何の為にモノを作り、何の為にモノを売り続けるのか。

自己認識と自己存在の証明。

ただし、それは磁針の効かない羅針盤。

どこまで歩き続けたとしても特別な景色は見えることはないと分かっていてもその歩を留める訳にはいかず、惰性であり無意識であってもその歩みを止めることは出来そうにない。

 

 

分かっていることはいくつか在る。

いつか死ぬということ。

ただし、死ぬ為に生きることと生きるために死ぬことでは意味が違う。

内包された死を持って生まれゴールなど有りもしないのだ。

つまり、最初からその最後を抱えたまま僕らは生を受けている。

ある種の、ある意味でのこれはバトン。

そう考える。

 

これはまた始まりなのだ。